2013年9月27日 星期五

韓國朋友趙榮弼! 2011.03.30

韓國の友チョーヨンピル!
 

· 2011.03.30
· 谷村新司



伊賀市が終わった次の日、早朝に関空からソウルに入りました! そして今日、NHKBSプレミアムのショータイム収録をここソウルで行いました。 迎えたたゲストは韓國の國民的シンガーで大親友のチョーヨンピルでした(笑顔) 2004年の上海でのパックスムジカスーパー以來、7年ぶりの再會はとても感動的で、ロックシンガーだったヨンピルの音楽一筋の生き方がしっかり伝わる番組になったと思っています! この10年以上韓國のテレビには一切出演していなかった彼が登場してくれたのは、このたびの東日本大震災で頑張ってらっしゃる日本の方達へのエールを送る為と、去年60歳を迎えたヨンピルが音楽とともに生きてきて、今伝えたいことを語って欲しい、、という我の番組ショータイムからの願いに応えるために、急遽バンコクからソウルに戻ってきてくれたのです。 いつ會っても飾ることなく物靜かで優しいヨンピルの子供のころから音楽に対する夢を追い続ける、その純粋で一途な生き方に觸れて、改めて胸が熱くなりました。 日本のスタッフや韓國のクルーたちも大感激の時間でした。 パックスムジカをスタートさせた1984年から、我はまるで戦友の様にお互いを信頼し友情をはぐくみながらアジアの國を旅してきました。 そんなヨンピルと収録の後5時間も話が盡きることなく、今我が出來ることを語り合いました。 そして二人の心の中で何かが確かに動き始めました、、それをきっと遠くない未來に実現させることを、確信しあえた忘れられない夜でした。 今日もらった新しい感動を胸に明日の夜、日本に戻ります。 みんなに伝えたい、チョーヨンピルはやっぱり、本物のサムライでした!!(笑顔)

中文來源:tanimuracn.com 翻譯:飛雪迎春


伊賀市的演出結束後的第二天一大早,我們來到了漢城關西國際機場。於是,NHKBS今天在漢城舉行了。迎接我們的是韓國人最喜歡的歌手趙榮弼。自從2004年我們一起在上海演出以來,相隔7年時間再次相會,彼此都非常激動。音樂是搖滾歌手榮弼的生命,我想他是在用全部精力傳播他的搖滾音樂!在過去的十年裏,韓國的電視上節目裏充斥著他的鏡頭。他出現在哪里,哪里就會發出一片叫喊。這次在東日本地震救災中,為了給那些頑強救災的人們送去贊助,在去年就已經迎來60花甲的榮弼又掀起了他的搖滾音樂熱潮,以表達他對災區人民的慰問之情。事實證明,他這次突然從曼谷返回漢城,就是爭取實現他內心的願望,為災區人民能有一個安靜,溫和的生活而付出自己的努力。榮弼不管什麼時候都毫不修飾,從兒時就開始追逐著音樂的夢想,並為之專注一生,把音樂當作自己生活的重要組成部分。我的心開始變得激動起來。這是來自日本的演職人員和韓國的同僚們都大受感動的時刻。 Pakkusumujika自1984年推出以來,我們已經前往亞洲好多國家演出,這樣的演出對培養彼此之間的友誼和相互信任是非常有意義的。收集趙榮弼的搖滾音樂五個小時仍然沒有結束,在這過程中,我們的心越來越近了,我們確信,傳播榮弼搖滾音樂的夢想,一定會在不久的將來得以實現。今天的收集工作就是一個增強信心的令人難忘的。我的內心充滿了今天帶給我的新的感動,明天晚上,我們就返回日本。在此我想告訴大家,趙榮弼還是一個真正的武士(笑)!

大篷車伊賀慰問演出 2011.03.27

支援キャラバン伊賀
 

· 2011.03.27
· 谷村新司



父の故郷、奈良県宇陀郡から山を越えた三重県の伊賀市、忍者の裏として有名な街を初めて訪れました。ホールの名前は(さまざまホール)、、のどかで美しい街でした。 今回のココロの學校に參加するために公募されて集まってくれた6歳から14歳まで総勢37人の子供たちは、元気いっぱいの聲と笑顔で歌ってくれました(笑顔) ピアノの石阪君が學生時代に現在伊賀市に合併された上野市の市歌を作曲していた事を3日前に本人から聞いてスタッフたちも大盛り上がり、ステージの上で今夜は特別に披露してくれました! 縁というものは本當に不思議なものですね、、、10泊以上の長旅を終えた詩織は共鳴ライブの思い出を胸に東京へ向かいました。 會場に來て下さった皆さんのあたたかさと穏やかさが我にも伝わってきてとても感動した時間になりました、ありがとうございました!

 
中文來源:tanimuracn.com

 
從父親的老家奈良縣宇陀郡出發,我們翻山越嶺,來到了三重縣的伊賀市,第一次訪問了作為忍者的故里而聞名遐邇的忍者村。伊賀市是一座和平而美麗的城市。這次為參加心之學校演出活動而來的6—14歲的兒童總數是37人。演出活動中進行了集體募捐。這些孩子們,用他們甜美的歌聲和笑臉放聲歌唱。鋼琴演奏家石阪君在學生時代就為合併到伊賀市的上野市創作了市歌,工作人員們在3天前聽到這個消息,並在今天的演出舞臺上特意披露出來。這個消息讓大家感到十分驚奇。經過十天長途跋涉的詩織也來到現場演出,把心中的回憶送向東京。來到演出現場的各位朋友溫暖而平靜的心情使我非常感動,這真是一場令人難忘的演出!

大篷車豐岡慰問演出 2011.3.27

支援キャラバン豊岡
 

· 2011.03.27

· 谷村新司



初めて訪れた、コウノトリの町豊岡は兵庫県の北、日本海に近い場所で、とっても靜かで美しい町でした。 片道3時間の移動の途中、雪が降り始めて豊岡に著いたときは気溫2度! その寒さを吹き飛ばしてくれたのは會場いっぱいに來て下さった皆さんと豊岡市少年少女合唱隊のみんなでした、5歳から11歳の子供たちは、まるで天使のようで、われわれのスタッフたちも一気に癒されてしまいました! 豊岡の皆さん本當にありがとうございました! さあ 明日のココロの學校支援キャラバンは三重県伊賀市です、明日お會いできる皆さんの笑顔を楽しみに今夜は眠ります(笑顔)

 
中文來源:tanimuracn.com 翻譯:飛雪迎春 


這是我第一次訪問兵庫縣的豐岡,我們來到了是北部小鎮--鸛鎮,這是一個臨近日本海非常安靜和美麗的小鎮。經過3小時的旅行,在我們即將到達豐岡時,天開始下起了雪花,溫度只有零上2度!寒風吹拂著演出現場早已到來的觀眾和豐岡市少年合唱團的演員們。這些5至11歲如同天使般的少年兒童和我們的工作人員一起用歌聲來癒合心靈的創傷。豐岡的各位朋友,非常感謝大家!明天心之學校大篷車慰問演出活動的地點是三重縣伊賀市。我在對明天觀眾朋友們的期待中愉快地進入夢鄉(微笑)。

富田林慰問演出2011.03.25



支援キャラバン富田林

· 2011.03.25
· 谷村新司
 

昨日はなつかしい大阪の富田林にある(すばるホール)でのココロの学校支援キャラバンでした。 何年も前からすばるホールさんからオファーをいただいていて、今回やっと実現できました! 

大阪の子供らしい自由で元気な富田林市少年少女合唱団の子供たちの歌声とともに、詩織の共鳴ライブも、こんごうデイケアセンターで大変盛り上がったようです。 生まれたばかりの長女そらちゃんの新しい写真をいっぱい撮ってきたピアノの石坂君もお父さんらしいやさしい音色を響かせてくれました。 会場には大阪の実家に戻っている臨月に入ったお嫁さんののりことご両親、おばさんたちも応援に駆け付けてくれました。 
会場に来てあたたかい応援をくださった皆さんにココロからの感謝です!  そして一夜明けて今日は早朝から1日中、心の学校のお知らせを朝日放送、毎日放送、読売新聞、朝日新聞、産経新聞と沢山の皆さんにお世話になり支援キャラバンの思いとともに一人でも多くの人に来ていただきたいので5月13日の兵庫県立芸術文化センターと5月14日の堺市民会館での告知をさせていただきました。

 さあ!明日は今、雪が降り始めたという情報が舞い込んできた兵庫県の豊岡に向かいます! 明日出会える皆さん、笑顔で待っていてくださいね!

中文來源:tanimuracn.com 翻譯:北國之春

  昨天,心之學校的演出活動在大阪富田林舉行,演出活動因為昴星洞先生的大力支持而獲得圓滿成功。

大阪的孩子們依然帶著天使般的笑臉,伴隨著富田林市青少年合唱團那些孩子們的優美的歌聲,詩織的鋼琴協奏曲轟響起來,使全場立刻產生了共鳴,把演唱會推向了高潮,氣氛非常熱烈。不一會,石阪君剛出生的長女的新照片出現在大螢幕上,於是,鋼琴演奏家石阪君演奏的美妙音色在全場響起…剛剛返回大阪快要臨產的石阪君的兒媳婦、父母和七大姑八大姨的都來到現場助陣。

  在此,我要對光臨演出現場到現場並給演出以熱烈支持的人們道一聲:謝謝你們了!一覺醒來,新的一天又開始了。從今天早晨開始,我將利用一天的時間,把5月13日 在兵庫県立藝術文化中心的演出和5月14日 在堺市民會館的演出公告通知給朝日電臺、每電視臺、《朝日新聞》、《讀賣新聞》、《產經新聞》和很多給與演出大力支持的單位和個人,哪怕是多一個人也好。
哦,加油吧!但願明天飄落的雪花,把我們演出的消息送到兵庫縣的豐岡!明天相會的諸位,就讓你們暫且等待一下吧!

春季選拔賽 2011 .03.23

春のセンバツに思う

· 2011.03.23
· 谷村新司
 


今日、甲子園球場で春のセンバツが始まった、選手達は1995年の阪神淡路大震災の年に生まれた、そしてその選手達の声と姿はたくさんの勇気を日本中に与えてくれるだろう。

 選手達の口からは、生かされている事への感謝の言葉が溢れ、我々日本人が忘れかけていた家族の絆や助け合うココロや支えあう勇気が今甦りはじめている。
 世界中の人達からの素晴らしいメッセージや応援のココロが我々に送られている、その一つ一つをしっかり受け止めて、日本のココロが新しく動き始めている事を強く感じます。 国境を越えて伝わっていく歌の大切さを感じながら支援キャラバンを続けて行こうと改めて感じています。 

ハミングコンサートから支援キャラバンに変更した事に対しても。 皆さんからのたくさんの応援や有難い言葉をいただき、その差額分を義捐金として送りたい、、という方達の思いもいただいて我々ダオスタッフも感激しています。 今、自分達に出来る事は、被災地で頑張ってらっしゃる皆さんのココロに寄り添いながら歌を届ける事だ、と信じて旅を続けます! たくさんの皆さんのココロが支えてくれている支援キャラバンの春の旅は、高校球児たちの熱い思いと共に、感謝と誠意を込めて走り続けます!


中文來源:tanimuracn.com 翻譯:北國之春


  今天在甲子園球場,春季選拔賽開始了。參賽選手都是1995年阪神淡路大地震那一年出生的。選手們通過他們的聲音和動作,把勇敢面對災難的勇氣傳遞給大家。
選手們由始至終充滿了對挽救他們生命的人們的感激之情,他們不會忘記,是誰讓他們重新找回失去的親人,是誰讓他們的家人得以團聚,是誰給了他們互相幫助、患難與共的勇氣。
這次地震,使我們感受到了全世界友好國家和人民的慷慨支援!他們有錢捐錢,有物捐物,真是大愛無疆,真愛沒有國界。讓我們的歌聲跨越國境,把我們內心的感動傳遞給那些給予我們無私幫助的人們吧。
 
對各國友好的人民給予我們的關心和慰問,我們的感激之情是難以用語言來表達的。現在,我們只有團結起來,重建家園,才不辜負全世界對日本人民的這次關愛。我們只能用發自內心的歌聲,通過春之旅的演出活動來不斷地傳遞我們誠摯的感謝!

福山慰問演出2011.03.21



支援キャラバン福山

· 2011.03.21
· 谷村新司
 

今日のココロの学校支援キャラバンは広島県の福山、場所はリーデンローズでした。 
デイケアサービス(ムジカ)さんに共鳴ライブとして歌を届けに行った詩織と父になったばかりのピアノの石坂君、そしてリーデンローズジュニア合唱団の元気な子供たち、みんなで力を合わせた2時間15分の支援キャラバンは我々にもたくさんの感動をくれました。
 客席の皆さんの温かさ、ロビーに設置された福山市からの募金箱、、みんなそれぞれが今、自分にできることを始めていることに感動でした! 被災地で頑張っている皆さんのところに歌を届けたい、、それが今の我々が出来ること。 今被災地で頑張ってらっしゃる皆さん! 我々に現地の情況を知らせてください、そして声を上げてください、その声が届いたら我々(支援キャラバン)は歌を届けに行きます!

中文來源:tanimuracn.com 翻譯:北國之春
 
  今天的內心的學校慰問演出活動在廣島縣的福山舉行,地點應該是在裏德婁茲。
在現場互動表演是獻歌的的詩織和和剛剛當了父親的鋼琴演奏家石阪君與裏德婁茲合唱團那些健康活潑的孩子們一起,傾情演出長達2小時15分中,我也被這場演出的場面感動了。
觀眾們十分踴躍地走到設在大廳裏的募捐箱,慷慨地表達了他們的愛心。能為災區那些抗震救災的、重建家園的英雄們送去我們慰問的歌聲,瞭解災區的情況,傳達我們的心聲就是我們的最大願望。

鹿屋慰問演出 2011.03.19

支援キャラバン鹿屋


· 2011.03.19
· 谷村新司

鹿児島空港から約2時間、大隈半島の鹿屋に著いたのは17日の夕方でした。 機材を運んでくれているドライバーの中島さんと、ほぼ同じ夕暮れの頃に著きました。 機材車は埼玉から2日間かけて鹿児島まで走り続けて無事に著いてくれました。 

初めて訪れる鹿屋は昭和の匂いが殘った懐かしい町、詩織が歌を屆けた養護施設は菜の花が咲いている畑の丘の上にありました、、詩織には內緒でこっそりと出かけて、ホールのカーテンの外で歌聲と子ども達の歓ぶ聲を聞いていると自然に涙が出てきました、、。 
夜にスタートしたココロの學校の方に來てくれた鹿屋少年少女合唱団の子ども達は、みんな明るく元気で一緒にいるだけで力をいっぱいもらいました! そして今朝、桜島に別れを告げて東京に戻ってきました、、東北関東大震災から1週間、、スタッフや裏方達、みんなのココロを合わせた支援キャラバンが今、動き始めました!(笑顔)

谷村新司中文來源:tanimuracn.com    翻譯:北國之春

  17號晚上,從鹿兒島機場出發,經過2個小時的旅行,我們就來到了大隈半島的鹿屋。負責運送器材的中島先也在黃昏時候到達了。裝備車輛從埼玉出發,用了兩天時間,也安全抵達了鹿児島。
記得我第一次來鹿屋還是是幾年前的事,但那次造訪的情景,至今記憶猶新。整齊的街道,良好的保育設施,還有那漫山遍野的油菜花香氣撲鼻,這如詩如畫的景色,加上從窗外傳來的孩子們那歡快的歌聲,讓我情不自禁地流下眼淚…




夜幕降臨了,參加心之學校演出活動的鹿屋青少年合唱團的孩子們一個個精神抖擻,給我們傳遞一種昂揚向上的力量。他們是今天早晨才告別桜島返回東京的。如今,東北關東大地震已經一周過去了,心之學校的演職人員們齊心協力,開始了慰問演出活動。

感激之情 2011.03.12

思いの有難さ、、
 
· 2011.03.12
· 谷村新司




1日経ってもまだ地震の餘震が続く中、世界の方達からの救援と勵ましが続と屆いています、、アメリカ、韓國、中國、シンガポール、ニュージーランド、オーストラリア、、たくさんの海外アーティストたちからも、がんばれ日本!の祈りやメッセージ、、、その思いの有難さに涙が出てきます。 

被災された方達は今だにつらい時間を過してらっしゃる事でしょう、、、我を含めた本當にたくさんの人達に元気を取り戻して!という素直な思いを伝えたい、、、そんな海外からの皆さんの思いがひしひしと伝わってきます、アリガトウございます! 人間って素晴らしい、、、そんな事を感じた1日でした。 

被災された皆さん! たくさんの人達の目に見えない熱い思いを胸に頑張りましょうね! 謝謝、朋友! カムサハムニダ、チングヨ! Thank you very much friends!

中文來源:tanimuracn.com

距地震發生到現在已經一天了,餘震還在接連不斷地持續著。世界各國的救援和慰問陸續傳送到日本。美國、韓國、中國、新加坡、新西蘭、澳大利亞以及許許多多的海外美術家、藝術家們都在為日本加油鼓勁,為日本祈禱! 這種一方有難,八方支援的場景真是感人至深,催人淚下。



受災者心靈的創傷是需要時間慢慢撫平的。真的希望包括我們在內的許多人,都能平安健康地活著,這也是國內外善良的人們對我們受災者最樸實的想法和祝願。地震災害發生後,人們的愛心一直在傳遞著,謝謝了!

  經歷了災難,才感到人的生命是那樣寶貴,活著是多麼美好。所有的受災者,你們並不孤獨,有那麼多不熟悉的熱心人在向你們伸出援助之手,讓我們共同努力吧,災難即將經過去,新的生活即將開始。謝謝支援我們的朋友!謝謝!非常感謝!

向地震災區同胞致以問候 2011.03.12

地震お見舞い申し上げます

· 2011.03.12
· 谷村新司



昨日の地震で被害にあわれた方達にココロよりお見舞い申し上げます。 
昨日は新しいアルバムのミックスダウンを麻布のスタジオでしていました、突然の長い揺れに音を聞いているいる最中だったスタッフと共に、テレビをつけてみて驚きました。 
時間が経つにつれて被害が段と増えて、餘震は午前3時の東京でも、まだ続いています。 電話も繋がらず、みんな家族や友人が心配で仕事は中斷した狀態のままでした。 
家に帰る事が出來ないで學校や公園や駅で夜を明かす人達が,自分の周りにもたくさんいます。 こんな時こそ、思いやりが大切ですね、それぞれ助け合いながら頑張りましょうね。 

行方不明の方達が一日も早く見つかりますように、そしてみんなが家族と無事に出會えますように、、、心から願ってやみません

中文來源:tanimuracn.com 翻譯:北國之春 向昨天遭受地震災害的同胞們致以真摯的問候!昨天,我的新專輯在麻布的藝術家工作室進行混音合成,在突然來臨的一陣搖晃中,我們聽到了一種奇怪恐怖的聲音,正在專心致志地工作的人們放下工作,不約而同地打開電視,電視裏播放的地震畫面把我們驚呆了。



隨著時間的推移,受害者人數和其他損失還會逐漸增加。就連東京從上午3點到現在,也明顯地感覺到一直延續不斷地餘震。電話也打不通,大家都在為自己的親朋好友的安危擔心。錄音合成工作就在這種情況之下中斷了。

已無家可歸的受害者們,聚集到學校、公園和車站等地,他們將通宵達旦地停留在哪里。越是這樣的時候,關愛才顯得多麼重要啊,大家都互相關心,互相照顧吧。
但願那些在地震中失蹤的人能儘快被找到,但願他們還都安然無恙地活著,並能與家人團聚。

亞細亞的孤兒

作者:韓寒     2010-06-24
 
来源:(http://blog.sina.com.cn/s/blog_4701280b0100jloa.html) - 亚细亚的孤儿_韩寒_新浪博客



這個名字源自1945年來自臺灣吳濁流先生的一部小說,當時臺灣在日本統治下,小說描寫的是當時的一個臺灣知識份子在臺灣被日本人欺負,在中國又被歧視的淒慘命運。後來這個名詞被用於形容國民黨第8709團和第26278團在中緬邊境的故事,為此香港還拍攝過一部電影,羅大佑也為此寫過一首歌,說是描寫當時的中南半島,也就是我們說的雲南緬甸老撾那一塊,當然,羅大佑寫那樣的歌詞和那個時候臺灣在國際上的尷尬位置也有關係,但現如今,上面所有的國家地區其實只能算是亞細亞的問題兒童,甚至有的還成為了亞細亞的好孩子,真正的亞細亞的孤兒——朝鮮。


上個星期我看了世界盃朝鮮對巴西的比賽,我一直對這場比賽非常期待,一方面我個人很喜歡南美足球,一方面朝鮮實在太神秘了,我和朋友們開玩笑說,朝鮮這些球員回國以後會不會被槍斃啊,因為他們看到了這個世界。我一看朝鮮隊的上半場比賽,我明白了,和朋友開玩笑說其實朝鮮隊一直擁有世界盃出線的實力,但因為歷屆世界盃都是在發達國家舉辦,所以不方便出線,這次在南非舉辦,南非貧富差距大,朝鮮政府就能把朝鮮隊往南非貧民窟裏一扔,說,你看,這就是非社會主義國家的情況,於是,金正日將軍決定,這次可以出線。第一場球,他們踢的很感染人,而且踢的非常的乾淨,從不一碰就倒,也不拉拉扯扯,滾倒了馬上就爬起來。無論是處於對弱者的同情還是同為亞洲人的感情,我都感同身受,在他們終於打進一個球以後,我非常高興,當然,我也告訴朋友們,千萬不能因為喜歡朝鮮隊員和朝鮮人民而愛屋及烏,喜歡上金正日和主體思想。後來第二場,很多朋友看好朝鮮,認為朝鮮甚至能爆冷幹掉葡萄牙,但歷史經驗告訴我們,類似的國家無論幹什麼事情,一旦沒扛住,崩潰起來就是一瀉千里。70以後,很多朋友又開始為朝鮮隊隊員回國以後的命運擔憂。
 
作為鄰國,朝鮮一直是一個非常尷尬的存在,很多人幼稚的認為朝鮮永遠是我們的好朋友,因為我們的國家信仰號稱一致,這個觀點非常奇怪,就好比你我都是阿根廷球迷,你我就必須是好朋友一樣。當然,最後大家發現,這兩個其實都是偽阿根廷球迷,只是大家的偽法不同。也有朋友幼稚的認為,就算再發生戰爭我們必須幫助朝鮮,因為我們不能讓資本主義國家和我們直接相鄰,而當年的那場戰爭,我們為了朝鮮人民,損失也非常慘重。這個觀點也很奇怪,誰說兩個曾經信春哥就一定不會打起來,而且朝鮮人民是否感謝我們也很難說。萬一朝韓戰爭爆發,人家朝鮮沖韓國扔幾個核彈,結果戰爭又打輸了,韓國遭受了核污染,弄不好像踢足球一樣,兩個國家以三八線為中線換個邊。其實我們接壤著什麼政治信仰的國家並不重要,現代戰爭也早就無所謂這些,關鍵是我們旁邊的國家是否文明,我們自己是否文明。
 
朝鮮有著還算豐富的自然資源,非常合理的人口總數,還算不錯的民族精神,按理來說,這樣一個國家要搞成這麼窮還挺不容易的,有些人把朝鮮的貧窮歸結於國際社會尤其是美國的制裁,我想他們未必瞭解這個國家,當然,我們也未必瞭解這個國家,但是,當資訊已經如此發達的時候,一個國家還這麼難以讓人瞭解,而這個國家的人民更不能夠瞭解世界,否則就會冒著被槍斃的風險,自然這個國家一定是貧窮的。資訊越封鎖,國家越落後,這是一定的。比較有意思的是,這個極度獨裁人民被高度洗腦的國家的名字叫朝鮮民主主義人民共和國,這和上世紀70年代血腥獨裁僅僅四年時間就導致自己國家五分之一人口死亡的紅色高棉政權管自己叫民主柬埔寨有的一拼,我估計他們念自己國家的全名的時候是他們唯一能說起民主的時候。
 
 
別國的內政我們不能干涉,我國的內政我們不能評論,於是我們只能去評論評論別國的內政。我總是以五十步盼百步的心情,期待著朝鮮融入這個世界裏,不再是亞細亞的孤兒,哪怕就像我們那樣,半推半就,欲拒還迎,左顧右盼,說東去西,至少我們在這個世界裏,我們也再不會撫摸著領袖的像章含淚起舞。所有人都服從於某一個人或者一個觀點從來不是判斷一個國家和政權好壞的標準。其實到了今天,什麼主義,什麼精神,什麼旗幟,都是一場遊戲一場夢,幾十年前,我們總是在糾結,權力到底要落在什麼階級的人手裏,事實上,權力掌握在什麼階級的人的手裏都不重要,任何獲得權力的人自然就變成了一個新的階級,從來就沒有誰可以論證他們天然和必然的會去維護自己出身的那個階級的利益。無論你是什麼階級,無論你是哪個思想家,哪個政治家,哪個軍事家,研究出如何獲得權力的都不偉大,研究出如何限制權力的才是偉人。
 
最後獻給大家這首羅大佑所作的我一直很喜歡的歌曲的歌詞,《亞細亞的孤兒》,我們希望朝鮮人民能過上更好的生活,至少不再饑餓。我們也告誡我們自己,苦海再無涯,回頭不是岸。

亞細亞的孤兒
 
    作曲: 羅大佑
    填詞: 羅大佑
   
    亞細亞的孤兒 在風中哭泣
    黃色的臉孔有紅色的污泥
    黑色的眼珠有白色的恐懼
    西風在東方唱著悲傷的歌曲
   
    亞細亞的孤兒 在風中哭泣
    沒有人要和你玩平等的遊戲
    每個人都想要你心愛的玩具
    親愛的孩子你為何哭泣
   
    多少人在追尋那解不開的問題
    多少人在深夜裏無奈的嘆息
    多少人的眼淚在無言中抹去
    親愛的母親這是什麼真理



   
 



太平洋的風


大陸八○後代表作家、青年意見領袖韓寒日前首度訪台,昨天在博客(部落格)刊出「太平洋的風」一文,敘述在台灣經歷的文化體驗,用生動的筆觸白描台灣,網友熱烈轉載討論。本報取得同意,刊出全文與讀者分享。




空客(編按:空中巴士)三二○降落在桃園機場。飛機的降落把我震醒。手機裡正好播放到張艾嘉的「戲雪」,這算是一首生僻的歌,陳昇寫下這樣的詞──「一九四八年,我離開我最愛的人,當火車開動的時候,北方正飄著蒼茫的雪,如果我知道,這一別就是四十餘年,歲月若能從頭,我很想說,我不走。」

悲歡離合 時間慢慢抹平
對於台灣,我的印象一直停留在侯孝賢和楊德昌的電影裡。後來魏德聖和九把刀又加工了一下。我喜歡的作家,梁實秋,林語堂,胡適也都去了台灣,而且他們都和魯迅吵過架。當大陸窮的時候,台灣有錢,後來大陸有錢了──確切的說,是政府和小部分人有錢了,台灣又有了……
戰火把同一個民族的人分隔在了海峽的兩岸,那些具體到每個家庭的悲歡離合已經被時間慢慢抹平。臺北的街道的確像優客李林唱的那樣,像迷宮一樣展開在我的眼前。但是對於異鄉人,每個陌生的城市都是迷宮。在酒店住下,誠品書店就在旁邊。

眼鏡店熱心 哪有這種好事
朋友的眼鏡架壞了,於是晚上先陪著朋友去配眼鏡。我們坐計程車來到了台大附近,進了一家眼鏡店。沒有聲音酥麻的台妹,老闆親自上陣。朋友看中了一副鏡框,但要幾天以後才能取。朋友說,那算了,我在台灣只留三天,我要明天就能取的,只能去別的地方看看。這時候,讓我詫異的一幕出現了,老闆居然從櫃檯裡摸索出了一對隱形眼鏡,塞在我朋友手裡,說,實在不好意思,沒能幫上你的忙,這個送你,先用這個應急吧。連我這般總是把人往好裡想的人第一反應也是──我靠,哪有這種好事,這裡面是有什麼貓膩(編按:暗藏陰謀)吧?咱還能走出這家店的店門麼?
我們平安的走出了這家眼鏡店,換去了隔壁一家。那家眼鏡店承諾第二天就可以把眼鏡做好,然後那家店的老闆用朋友殘留下的鏡片臨時找了一個鏡框湊合裝了起來,告訴朋友,這個可以晚上用。這兩家只是非常普通的路邊眼鏡店,還是自己隨機找的,要不真得讓人懷疑是不是組織方安排的,目的為了讓大家增加對台灣的好感。

抗議遊行 陸客直喊新鮮
台灣的街道上有不少的小遊行和抗議橫幅,這一切對於大部分大陸遊客來說都太新鮮了,於是很多遊客守著電視機看晚上的政論節目。我媽媽去年從台灣旅遊回來,就說那裡太好玩了,領導人可以在電視裡隨便罵,比快樂大本營還要歡樂。相比之下,台灣人對這些早就習以為常。但給我留下了比 馬英九 先生更深印象的是 王鴻松 先生──他不是明星政客,也不是文人墨客。他是一個計程車司機。一天早上,我從酒店下樓,打(搭)了他的車去陽明山。到了目的地我發現把手機拉(掉)在計程車上。我沒有記下車牌號。朋友們忙著幫我聯繫計程車公司,看看能不能查到一些訊息,我也打給酒店,想讓他們查看一下監控錄影,確認車牌號。一會兒,我接到了酒店的電話,我問他們,是查到車號了麼?他們說,監控錄影裡訊息太多,還沒有查到,但是剛才有一位計程車司機開回酒店,把一個手機交給了前臺,說是一位從你們這裡上 車的 先生遺落在車裡的

尋回手機 司機婉拒酬謝
說實話,我石化(編按:愣住)了。我問到了計程車司機的電話和名字,說我想酬謝你。王鴻松說,不需要啦,很正常的,小事一樁,我們都是這樣的。他告訴我,前幾天剛和幾個朋友環島開了一圈,打算過一段時間來大陸旅行。他說他開計程車就是為了能夠去更多的地方看看。末了居然還來一句:我有QQ和新浪微博的,你的號是什麼,我們可以在網上聯繫的。這頓時讓我覺得兩岸關係非常親密。接著,他繼續說,你有臉書麼?我說,大陸的互聯網沒有臉……書。他說,哦,對哦,是哦。我不和你說了,有客人了,再聯繫哦。
也許是我的命好,遇見的都是好人,也許是我走的膚淺,幾乎所有人都和氣。毫無疑問,如果我在台灣多停留幾天,我當然能看見他不如人意的一面,也許他硬體不夠新,也許他民粹也湧現,也許他民怨從不斷,也許他矛盾也不少。沒有完美的地方,沒有完美的制度,沒有完美的文化,在華人的世界裡,它也許不是最好的,但的確沒有什麼比它更好了。

官方的錯 成了民族注釋
這篇文章裡不想談論什麼政治和體制。作為一個從大陸來的寫作者,我只是非常失落。這些失落並不是來自於這幾天淺顯的旅行,而是一直以來的感受。我失落在我生存的環境裡,前幾十年教人兇殘和鬥爭,後幾十年使人貪婪和自私,於是我們很多人的骨子裡被埋下了這些種子;我失落在我們的前輩們摧毀了文化,也摧毀了那些傳統的美德,摧毀了人與人之間的信任,摧毀了信仰和共識,卻沒有建立起一個美麗新世界,作為晚輩,我們誰也不知道能否彌補這一切,還是繼續的摧毀下去;我失落在不知道我們的後代能不能生存在一個互相理解而不是互相傷害的環境之中;我失落在作為一個寫作者,我寫這篇文章的時候還要不停的考慮措辭,以免哪個地方說過了線;我失落在當他人以善意面對我的時候,我的第一反應居然是會不會有什麼陰謀;我失落在我們自己的文藝作品很少能夠在台灣真正流傳,而能在台灣流傳的關於我們的大多是那些歷史真相和社會批判,更讓人失落的是那些批判和揭露往往都是被我們自己買了回去,用於更加瞭解我們自己。除了利益和人與人之間的鬥爭,我們幾乎對一切都冷漠。這些冷漠和荒誕所催生的新聞都被世界各地的報紙不停的放在頭版,雖然可以說這是官方的錯,但無奈卻也成了這個民族的注釋。

感謝港臺 庇護中華文化
是的,我要感謝香港和台灣,他們庇護了中華的文化,把這個民族美好的習性留了下來,讓很多根子裡的東西免於浩劫。縱然他們也有著這樣那樣的詬病。而我們,縱然我們有了麗茲卡爾頓和半島酒店,有了GucciLV,我們的縣長太太也許比他們最大的官員還要富有,我們隨便一個大片的製作成本就夠他們拍二、三十部電影,我們的世博會和奧運會他們永遠辦不起,但走在台灣的街頭,面對著那些計程車司機,速食店老闆,路人們,我卻一點自豪感都沒有。我們所擁有的他們都擁有過,我們所炫耀的他們的納稅人不會答應,我們所失去的他們都留下了,我們所缺少的,才是最能讓人感到自豪的。
文化,法制和自由是一個民族的一切,別的國家不會因為你國的富豪瘋狂搶購了超級跑車和頂級遊艇而尊敬你的國民。坐在空客三三○的機艙,飛翔在 兩萬英呎 的高空,一個半小時就到了上海,窗外望去,都是海水。既然我們共用著太平洋的風,就讓它吹過所有的一切。




張艾嘉-戲雪

作詞:陳昇 作曲:王豫民

飛翔在 兩萬英呎 的高空 候鳥要歸鄉
並不需要堅強 或任何悲傷
就讓那日日夜夜想不透荒謬的心事 塵封自己心中
不被發現 最神祕的地方
我請問煙塵往事 那一位歸鄉的老人手中握的相片
那個人是誰
老先生緩緩轉身 露出了光彩的眼神
微笑對我說明 是他的抱歉
一九四八年我離開我最愛的人
當火車開動的時候 北方正落著滄茫的雪
如果我知道這一別就要四十一年
歲月若能從頭 我很想說 我不走
他說我長得像那年十八歲愛生氣的她
要我懂得珍惜 擁有的時光
問起我 為何來到了遙遠的北方
想要知道什麼 或尋找什麼
時間並不能治療我心中的疼痛
南方的春天 說什麼也溫暖不了我冰冷的血
年老的我如今要回到飄雪的北方
找一個理想的日子 靜靜躺在 她身邊
回去吧異鄉遊子該到了安詳的時候
北方亙古的雪 沈默的落著
老人家傾神聆聽 風雪中汽笛的聲音
彷彿回到從前 走入漫漫的風雪 走向漫漫的風雪
 
 

大德寺高桐院

來源:jpwindow.com
 
 
高桐院是京都臨濟宗大本山大德寺的小寺院之一。1601年細川忠興為安葬其父細川藤孝所建。內有書院意北軒,據說原為千利休家的客廳,還有細川忠興修建的、利休喜愛的茶室松向軒等。入口附近的紅葉也是此處的一大美景。 
 
日文名:高桐院
票價:參觀費用400日元
營業時間:916
休息日: 56678日、有不定期的休息日
聯繫電話:075-492-0068
中文地址:京都府京都市北區紫野大徳寺町73-1
中文交通:乘坐京都市營地鐵在北大路站下車第2出口出站→步行15分鐘。或換乘市內巴士1205206路,乘坐5分鐘大德寺前站下車,步行5分鐘

 

大德寺高桐院

 

人潮恐懼症的我,一點也不想在日本三天連假時到熱門楓葉名所和大家擠,
加上今天下雨機率高達80%,特地起個大早往洛北的方向去,206公車走了許
久後終於來到大德寺,下車時司機見我拿公車一日券,顯然是觀光客,還很
熱心地特地提點我大德寺的方向,真是感恩啊!!
 
以為大德寺它像我們熟知的清水寺、金閣寺一般,買一張拜觀料就可以入寺
參觀,不這裡完全不是這樣,這裡由許許多多名庭名所組成,門票是個別
收,如果你有足夠的時間和金錢,在允許公開參觀的情況下,你可以古寺欣
賞個夠,這麼大的腹地內入口處也沒人發個地圖,只好很隨意地閒逛了起來。

太早太清幽了,幾乎沒有一點遊客,只見一位年輕人幾乎是跟著我的腳步,
我無料欣賞完一間名庭的入口處(因為還沒開放),隨後便換他進來,最後他
開口對我說了一堆日本話,我只能抱歉「我來自台灣,日本話不會說」,
看似遊蕩閒晃下,其實我在找我的目的地"高桐院",當我眾裡尋她千百度而終
尋獲時,突然想起那位日本年輕人應該跟我一樣在找高桐院吧我便又跑出巷
口跟他揮揮手示意在此,果然他和我一樣高興地終於找到高桐院。



再進入真正門票入口前的參道,有兩三位攝影朋友在這裡等待,我和日本年輕
人也一起窩了進去,大家在等待目前還算非常非常少遊客的一刻,可以非常有
機會拍到無人情況下的參道,當這一刻發生時,現場一片安靜,只聽得見彼此
的快門聲在這寧靜的高桐院參道前。


 
走過參道來到入口處,排隊等候著九點將要開門的高桐院(費用400),腹地
小的高桐院卻讓我驚喜萬分,庭院裡沒有種植太多其他的植物,那片綠地就是
楓葉的畫布,隨著楓葉日漸地凋落,灑落在綠色畫布上,高桐院走的是一股攸
柔意境之美,不大的庭院不多的席坐,但這裡卻是我在旅程後段思念想再度重
回之處。








來過高桐院之後發覺這裡越是深秋落葉越是美,楓葉層層堆疊,彷如紅毯,此
處當是十二月深秋最適宜觀賞之處。
在這裡我沒有聽到任何一句國語,一個對台灣朋友而言還算冷門之處,但這裡
絶對在我此行擠入前三大最愛之列,高桐院與大家分享。




來源:http//www.jpwindow.com


日本坑渠蓋成旅遊資源財產



日本卡通坑渠蓋
magareborn
 
 

日本人頭腦靈活而且喜歡卡通不死板,所以連坑渠蓋都充滿了其國漫畫王國的特色,不知道鄰近地區的朋友又是否會去偷來當廢鐵賣?

反觀香港政府常常說要推廣旅遊,可是卻沒有任何可行的推廣手段,頭腦就更加談不上靈活!中國人的世界就是一個字「悶」!

近期有一本名叫《一起去看下水道》(Drainspotting)的新書第一次以檔案的形式記錄了這一嗜好,書中描述了800個坑渠蓋。

坑渠蓋迷:這一風潮已經席卷日本。這些照片由出生於考文垂的攝影師雷默·卡麥羅塔(Remo Camerota)拍攝。他為《一起去看下水道》一書提供插圖。這些圖片向我們展示了許多稀奇古怪的坑渠蓋 – 事實上,在日本有6000多個設計奇特的坑渠蓋。

這類豐富多彩的坑渠蓋首次出現於上世紀80年代。當時正值日本大城市之外的地區更新下水系統。這一計劃曾遭遇來自當地傳統主義者的阻力,他們反對設置下水道井口。考慮到計劃危在旦夕,一位主管項目的官員通過定制個性化下水道井口並以井蓋設計講述當地故事的形式解決了這一難題。

看看這條魚:以日本下野市(Shimotsuke)和與之結成姊妹城市的德國哈瑙市(Hanau,格林兄弟的出生地)為例,其坑渠蓋設計中都體現了童話故事小紅帽的內容。
松山市(Katsuyama)則以其恐龍化石和坑渠蓋上的霸王龍形象聞名於世。而在日本迪斯尼樂園所在地東京市(Tokyo),有一處井蓋上畫著米老鼠的肖像,當人們踩在上面的時候,坑渠蓋上的米老鼠還會說話。

有兩種蓋被標示成鮮明的紅黃兩色,以便消防員發現並從井中取水。《一起去看下水道》一書中的照片由雷默·卡麥羅塔拍攝。他曾花費三個月的時間訪問那些提供成百上千處個性坑渠蓋位置的網站,以研究這一文化現象。

有些蓋的設計十分奇特 – 而這正是最初吸引坑渠蓋迷們的原因。出生在考文垂,如今居住在東京的44歲的雷默說,「我發現這些坑渠蓋非常令人著迷,於是就租了一輛車花一個月時間走遍日本以拍攝這些絕美而有趣的東西。我和我女朋友走過每一座城市,四處尋找個性井蓋。有時我們會因為走錯路而爭吵,但隨後卻會發現一個之前從未見過的漂亮坑渠蓋– 這樣的事兒發生了好幾次。」

「尋找他們的過程感覺是最棒的,就像是在尋寶。你穿越大街小巷,行色匆匆,急切希望看到新的坑渠蓋,時常會發現一些你意想不到的驚人設計。坑渠蓋的設計已經變得更加豐富多彩,為鄰近城市之間的競爭增色不少。」

「現在我們可以在坑渠蓋上看到很多東西 – 花草、鳥獸、忍者、消防員、神社、飛龍……甚至還有哥斯拉和宇宙飛船。我已經定下一個計劃,將這些美麗的坑渠蓋全部拍攝下來。對我這樣一位收藏者來說,最大的興趣就是把它們盡收眼底,並與全世界分享」!